今日は前置きなしにお伝えします。
先日読んだ、メッセージの中にこのような話が添えられていました。シェアさせてください。

目次

サリバン先生の未来への扉を開いた、ひとりのお掃除のおばさんの話🍃

 

ヘレンケラー。

目が見えない、
耳が聞こえない、
話せない…

三重苦という
完全なる闇を
抱えながら、

アニーサリバンという
最高の師と出会い、
世界の福祉制度を変えた、
誰もが知る偉人です。

今から私が
お話しするのは
ヘレンケラーの
ことではなく、

100年ほど前に
アメリカの
ニューイングランド州の
病院に勤めていた、

一人の
『お掃除のおばさん』
のお話です(^^♪
__________

おばさんの働く病院には、

『緊張型精神分裂症』

と診断された
9歳の女の子が
入院していました。

女の子は幼くして
両親と生き別れ、

弟と一緒に
施設に引き取られたのですが

弟もほどなくして亡くなり、
大きな悲しみに暮れた少女は

そのショックから
視力を殆ど失って、

追い打ちをかけるように

この重い心の病に
かかってしまったのです。

著名な医師たちが
彼女を診断しますが、

治る見込みはない、
ということでした。

当時は精神障害に対して
差別も色濃かった時代であり、

彼女は一日のほとんどを、
鉄格子のついた病室の
ベッドに横たわって
過ごしました。

笑うことも、
言葉を発することもなく、
ただ死を待つばかりでした。

おばさんは、
少女の部屋の周りを
毎日掃除しにやってきます。

おばさんにも、
同じくらいの年の
娘がいるので

不憫に思いながら…
時折声をかけてみます。

『元気?』

「……」

『いいお天気だよ。
あんた、今日も
全然食べてないじゃない』

「………」

『少しは食べて
元気出さなきゃね』

「・・・・・・・・・」

少女は表情一つ
変えることはありません。

そこでおばさんは、
毎日病室の前を去る前に、

ちょんちょん、

とホウキの柄で
少女の肩を優しく
つついてあげることにしました。

直接触れることは
できない、

でもホウキなら…

『明日も来るからね』

ちょんちょん。

『ご飯持ってきたよ』

ちょんちょん。

『さあ、今日も廊下を
きれいにしておいたからね』

なでなで。

鉄格子の間から
ホウキを差し入れて、
そっとつついたり撫でたり。

そんなことしか
してあげることは
できませんでしたが、
それでも何かせずには
いられなかったのです。

それから三か月ほど
経ったある日、
小さな変化が起きました。

おばさんが
病室の前に行くと、
いつもベッドに
横たわっていた少女が、
座っているのです。

『あれ!
今日は顔色もいいじゃない!
具合がいいの?』

「……」

『良かったね、
今日はおばさん、
張り切ってきれいに
しておくからね』

「………」

『また明日ね』

ちょんちょん。

それから少女は、
少しずつご飯のお盆を
手で受け取れるようになり、
ほんの一言ずつでしたが
言葉を発するようになり、
弱視ながら
視力を取り戻して、

笑顔まで
見せるようになりました。

偉い医師たちが
匙を投げた少女は、
やがて奇跡のような
回復を遂げていったのです。

それから約10年後。

この病院の院長は、
アラバマ州から来た
紳士からある相談を受けます。

紳士の子どもが
重度の障害児で、
世話をしてくれる人を
探しているというのです。

その頃、あの少女は
19歳になっていました。

院長は自信を持って、
彼女を紳士に紹介しました。

彼女の名は、
アニーサリバン。

病室で
ただ死を待つだけだった、
あの少女です。

ヘレンケラーの
世界的偉業は、
アニーサリバンの存在が
あったからこそ、
という事実は
私たち誰もが
知るところですが、

ではそのアニーサリバンは
誰によって
未来への扉を
ひらかれたのでしょうか。

ホウキの先ほどの、
小さな愛。

どんな大木も、
たった一粒の種から生まれ、
どんな大企業も、
たった一人の志から
始まります。

私たちは、
『いい世界を創ろう!』
などと聞くと、

『私なんかに
そんな大きなことは
できない…』

と思ってしまいがちですが、

あなたのたった一言、
たった一つの
愛の行動が、

今日もあなたがいる
場所の片隅に
あたたかな火を灯し、
やがて世界を変える
大きな力に
なるかもしれません。

『今日は
どんな一歩を
踏み出しますか?』

ヘレンケラーとサリバン先生

 

あなたが苦しんで来たことが、誰かを助ける智慧になる

この話を読んで、嗚咽しながら泣いてしまいました。
人は誰かひとりでもいい、信じてくれる人がいれば奇跡が起こるのだ!と強く思いました。

サリバン先生のことは、あまり知られていませんが、この不遇の時があったからヘレンケラーを諦めずに信じ続けらたのですね。
お掃除のおばさんのこの行動がなかったら、全くアニーサリバンの人生は変わっていたかもしれません。

自分もその時代時代にわたしを信じてくれるひとがいて、ここまでやって来れた、こんな変わり者の自分をそのままでいいと
言ってくれる人がいたことで今を生きているように思います。
いつかは自分もそんな人になれる日が来るのでしょうか。

人は何か乗り越えなくてはならない壁があるからこそ、何かを見出すこともあるのかもしれません。
幸せが少ないのは、不幸なのではなく、考えるための智慧をうみ出すことでもあるのかもしれません。

もしかしたら、あなたが苦しんで来たことが、誰かを助ける智慧になるのかもしれません。
自分が苦しんだことは、誰もが生きやすくなる社会のための問題を先に体験していたと思うようにしています。

ヘレンケラー

(Wikipediaより)

 

今日は『一粒万倍日』ですよ!誰かのために何かしてみませんか?
今日もいい日でありますよに🎵

 

ヘレン・ケラー

ヘレン・アダムス・ケラーHelen Adams Keller1880年6月27日 – 1968年6月1日)は、アメリカ合衆国教育家社会福祉活動家著作家である。

視覚聴覚重複障害者盲ろう者)でありながらも世界各地を歴訪し、障害者の教育・福祉の発展に尽くした。

  • 1880年6月27日 – アメリカ合衆国アラバマ州タスカンビアで誕生。父のアーサー・ケラーはスイスドイツ語圏から移住したドイツ系の地主の息子で、南北戦争当時南軍大尉でドイツ系アメリカ人である。アーサーの母(ヘレンの祖母)のマリー・フェアファックス・ケラーはイングランド系アメリカ人南軍の総司令官、ロバート・E・リーとははとこの関係[注 1]にある。母のケイト・アダムス・ケラーもアーサーの母とおなじくイングランド系アメリカ人であり、その父(ヘレンの祖父)のチャールズ・アダムス英語版は南軍の准将であった。両親ともに南部の名家の出身である。兄弟は異母兄が2人、のちに同母妹のミルドレッドを持つ。
  • 1882年 – 1歳半の時に高熱(現在では猩紅熱と考えられている)に伴う髄膜炎に罹患する。医師と家族の懸命な治療により一命は取り留めたものの、聴力と視力を失い、話すことさえできなくなった。そのため両親からしつけを受けることの出来ない状態となり、非常にわがままに育ってしまう。
  • 1887年(7歳) – ヘレンの両親は聴覚障害児の教育を研究していたアレクサンダー・グラハム・ベル電話の発明者として知られる)を訪れ、ベルの紹介でマサチューセッツ州ウォータータウンにあるパーキンス盲学校の校長マイケル・アナグノスに手紙を出し、家庭教師の派遣を要請した。3月3日に派遣されてきたのが、同校を優秀な成績で卒業した当時20歳のアン・サリヴァン(通称アニー)であった。サリヴァンは小さい頃から弱視であったため(手術をして当時はすでに視力があった)、自分の経験を活かしてヘレンに「しつけ」「指文字」「言葉」を教えた。おかげでヘレンはあきらめかけていた「話すこと」ができるようになった。サリヴァンはその後約50年に渡りよき教師、そしてよき友人としてヘレンを支えていくことになる。
  • 1888年5月(7歳) – ボストンのパーキンス盲学校に通学を始める。以後3年間、断続的に学ぶ。
  • 1890年3月(9歳) – ボストンのホレース・マン聾学校の校長、サラ・フラーから発声法を学ぶ。
  • 1894年(14歳) -ニューヨークのライト・ヒューマソン聾学校に入学。発声の勉強に励む。
  • 1896年10月(16歳) – ケンブリッジ女学院に入学、まもなく父アーサーが死去。
  • 1897年12月(17歳) – サリヴァンが校長のアーサー・ギルマンと教育方針をめぐって衝突したため、ヘレンはケンブリッジ女学院を退学。2人はボストン南郊のレンサムに家を借りて落ち着く。ヘレンは、もう1人の家庭教師であるキースの手を借りて勉強を続ける。
  • 1900年10月(20歳) – ラドクリフ・カレッジ(現:ハーバード大学)に入学。
  • 1902年(22歳) – 『わたしの生涯』を執筆し、新聞に連載。出版は翌年。
  • 1904年(24歳) – ラドクリフ・カレッジを卒業、文学士の称号を得る。
  • 1905年5月(24歳) – サリヴァンがジョン・メイシーと結婚。借家を購入済みのレンサムの家に3人で同居する。
  • 1906年(26歳) – マサチューセッツ州盲人委員会の委員となる。
  • 1909年(29歳) – アメリカ社会党に入党。婦人参政権運動、産児制限運動、公民権運動など多くの政治的・人道的な抗議運動に参加する。また、著作家としても活動を続ける。
  • 1913年(33歳) – ジョン・メイシーがレンサムの家を去り、サリヴァンの結婚生活が崩壊する。
  • 1916年(36歳) – 世界産業労働組合 (IWW) に共感を覚え、活動に参加。1917年ロシア革命を擁護した。
  • 疲れのせいかサリヴァンの目の病気が再発したため、ポリー・トンプソンが手伝い(のちに秘書)として、ヘレンとサリヴァンのもとで働くようになる。
  • 1917年(37歳) – 生活不安のためレンサムの家を売却し、ニューヨーク市クイーンズ区のフォレスト・ヒルズに転居。
  • 1918年(38歳) – ハリウッドで自叙伝を映画化した「救済」に出演。
  • 1922年(42歳) – 妹と同居中の母ケイトが死去。
  • 1927年(47歳) – 『わたしの宗教』を出版。
  • 1936年10月20日(56歳) – サリヴァンが死去。サリヴァンは亡くなる直前、サリヴァンが病床にあるという理由で岩橋武夫日本ライトハウス館長)からの来日要請をためらっていたヘレンに「日本に行っておあげなさい」と遺言したという[1]
  • 1937年昭和12年)(56歳) – 岩橋武夫の要請を受け訪日し、3ヶ月半に渡り日本各地を訪問した。
    • 4月15日浅間丸に乗りトンプソンとともに横浜港に到着。
    • 横浜港の客船待合室で財布を盗まれてしまったが、そのことが新聞で報道されると日本全国の多くの人々からヘレン宛に現金が寄せられた。その額はヘレンが帰国するまでに盗まれた額の10倍以上に達していた。
    • 4月16日新宿御苑で観桜会が開催され、昭和天皇香淳皇后が行幸[2][3]。観桜会に出席したヘレンは、昭和天皇に拝謁した[3]
    • 4月19日には大阪、4月30日には埼玉、そして5月以降も7月半ばまで日本各地を次々と旅して回った。
    • この訪日でヘレンは「日本のヘレン・ケラー」と言われた中村久子と会った。「彼女は私より不幸な人、そして、私より偉大な人」と賞賛した。
    • 東北学院[4]早稲田大学[5]、東京盲学校(現:筑波大学附属視覚特別支援学校)、同志社女子大学、近江兄弟社女学校(現:近江兄弟社高等学校)を訪問。
    • 8月10日に横浜港より秩父丸に乗りアメリカへ帰国した。
    • 秋田県での講演会の際に記念として秋田犬を所望し、秋田警察署の小笠原巡査部長が連れてきていた仔犬(神風号)が贈られた[6]。なお、神風号は渡米して2か月で亡くなってしまったため、1939年に小笠原の愛犬「剣山号」が贈られている[6]
    • フォレスト・ヒルズの家からコネチカット州のウエスト・ポートに移転。
  • 1939年(59歳) – ウエスト・ポートで、慈善家によってヘレンのために特別に建てられ寄贈された家に転居。
  • 1946年11月(66歳) – トンプソンとともに海外盲人アメリカ協会の代表としてヨーロッパを訪問中、住宅が全焼。原稿、資料その他貴重な所有物をほとんど失う。
  • 1947年10月(67歳) – 住宅を再建し入居。
  • 1948年(昭和23年)8月(68歳) – 2度目の訪日。2か月滞在して全国を講演してまわる。これを記念して2年後の1950年(昭和25年)、財団法人東日本ヘレン・ケラー財団(現:東京ヘレン・ケラー協会)と財団法人西日本ヘレンケラー財団(現:社会福祉法人日本ヘレンケラー財団)が設立されている。
  • 1951年(71歳) – 南部アフリカを訪問。
  • 1952年(72歳) – フランス政府からレジオン・ド=ヌール勲章を授けられる。
  • 同年から1957年にかけて、中東中部アフリカ北欧、日本を訪れる。
  • 1955年(昭和30年)(75歳) – サリヴァンの伝記『先生』を出版。3度目の訪日も実現し熱烈な歓迎を受けた[注 2]。訪日の理由の1つは、1954年(昭和29年)に没した朋友岩橋武夫に花を手向けるためであった。ヘレンは空港で岩橋の名を叫び、岩橋の家では泣き崩れたという。勲三等瑞宝章を授けられる。
  • 1960年(80歳) – トンプソン死去。
  • 1961年(81歳) – 軽い脳卒中になり、徐々に外界との接触を失う。
  • 1964年9月(84歳) – アメリカ政府から大統領自由勲章が贈られる。
    • ヘレンは少女時代に、日本から渡米留学していた若き教育者石井亮一と面会しており、ヘレンが初めて会った日本人とされている。石井は日本初の知的障害児者教育・福祉施設「滝乃川学園」を創立し、「日本の知的障害児者教育・福祉の父」と言われている。
    • ヘレンを快く思わない者も少なくなく、日本の外交官重光葵の手記『巣鴨日記』[10]によると、巣鴨プリズンに収監されている元将官たちの中には、ヘレンのニュースが耳に入ってきた際、ヘレンのことを「あれは盲目を売り物にしているんだよ」とこき下ろす者もいた。このことに関して重光は「彼等こそ憐れむべき心の盲者、何たる暴言ぞや。日本人の為めに悲しむべし」と元将官たちを痛烈に批判すると同時に、彼らの見解の偏狭さを嘆いている。
    • 幼少時、ヘレンは同じく盲目の塙保己一を手本に勉強したという。塙のことは母親から言い聞かされていたとされる[1]
    • 秘書で元新聞記者のピーター・フェイガンと相思相愛になり婚約までしたが、独断だったこともあってヘレンの家族の反対に遭い、破談にさせられた。特に、保守的な思想を持つヘレンの母は、労働運動をしていたピーターを嫌っていた。ヘレンの妹の夫によると、母の反対ぶりはライフルをピーターに向けて「今後一生近付くな。さもなければ射殺する」と脅迫するほどだったという。結局、ピーターは秘書を辞めさせられたばかりか、これがヘレンとの今生の別れとなり、別の女性と結婚。一女をもうけたのちに没した。ヘレンもこれが最初で最後の恋愛となり、生涯独身を通した[1]
    • 健常者と同様に、乗馬複葉飛行機の同乗を体験した。
    • LIFE誌が1999年に選んだ「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人(うちアメリカ人と分類されたのは22人のみ)」に選ばれている。
    • 外国語は、フランス語、ドイツ語、ラテン語、古代ギリシャ語に通じていた。
    • ヘレン・ケラーは優生学を支持していた。 1915年に、ヘレンは重度の精神障害または身体的奇形のある乳児に対する安楽死を支持するという書簡を発表し、「人生に高潔さを与えるのは幸福、知性、才覚の可能性であり、不健康な、奇形の、麻痺した、思考をしない生き物の場合、それらは存在しない」「精神障害者はほほ確実に、潜在的な犯罪者になる」と述べた[11][12][13]。この書簡はかなりの議論を呼んだ。John Gerdtzは、ヘレンの思想とピーター・シンガーの思想との類似を指摘している[13]1968年6月1日(87歳) – コネチカット州イーストンの自宅で死去。87歳没。88歳の誕生日の約4週間前の死であった。ワシントン大聖堂で葬儀が行われ、地下礼拝堂壁内の納骨堂にサリヴァン、トンプソンと共に葬られている。死後、日本政府から勲一等瑞宝章が贈られる。ヘレンは福祉活動のみならず、広範囲な政治的関心を持って活動した女性であった。当時としては先進的な思想を持ち、男女同権論者として婦人参政権、コンドームの使用を主張した。また、人種差別反対論者であり、過酷な若年労働や死刑制度、そして第一次世界大戦の殺戮にも反対した。これらの活動のため、ヘレンはFBIの要調査人物に挙げられている。最初の訪日の際には特別高等警察の監視対象になっていた[8]
      • 「三重苦」だったと言われているが、発声に関してはある程度克服した。ヘレンの妹の孫によれば、抑揚はないものの話すことができたという[9]
      • ヘレンは、自身の考える20世紀の三大重要人物を問われて、エジソンチャップリンレーニンを挙げている。
      • ヘレンとサリヴァンの半生は『The Miracle Worker』として舞台化および映画化されており、日本では『奇跡の人』という邦題で何度も上演されている。英語の「The Miracle Worker」は「(何かに対して働きかけて)奇跡を起こす人」といった意味でありサリヴァンのことを指すが、日本ではヘレンのことと誤解され、「奇跡の人」がヘレンの代名詞として用いられることも多い。サリヴァンがヘレンの初訪日直前に病没し、日本でサリヴァンを知る人がごく一部しかいなかったことが誤解の原因とされている。
        (Wikipediaより)