ヘレンケラー。目が見えない、耳が聞こえない、話せない…三重苦という完全なる闇を抱えながら、アニーサリバンという最高の師と出会い、世界の福祉制度を変えた誰もが知る偉人です。

「奇跡の人」というとヘレンケラーと思われがちですが、実は奇跡を起こしたアニーサリバン先生が“奇跡の人”なのです。

ひとりを大切に思い、生涯かけて守り通したアニーサリバン。もちろんサリバン先生の生い立ちの背景もあったからなのだろうと思います。ヘレンケラーはアニーサリバン先生の力があり、全く違う人生へと歩むことが出来ました。

運命の人と出会ったいなかったら。わたしたちも何かやらなければと思うことに出会ったら、手を差し伸べることを躊躇ってはいけないですね。

ヘレンとサリヴァンの半生は『The Miracle Worker』として舞台化および映画化されており、日本では『奇跡の人』という邦題で何度も上演されている。英語の「The Miracle Worker」は「(何かに対して働きかけて)奇跡を起こす人」といった意味でありサリヴァンのことを指すが、日本ではヘレンのことと誤解され、「奇跡の人」がヘレンの代名詞として用いられることも多い。サリヴァンがヘレンの初訪日直前に病没し、日本でサリヴァンを知る人がごく一部しかいなかったことが誤解の原因とされている。(Wikipediaより)

目次

アニーサリバン先生(アン・サリバン)

アニーサリバン先生

アニーサリバン先生については、あまりよく知られていません。
サリバン先生が、ヘレンケラーが日本に来る前に亡くなってしまったことが原因のようです。亡くなる前のサリバンはヘレンケラーに日本に行くように勧めていたといいます。ヘレンケラーは遺言通りに、亡くなった後に訪日されました。

「奇跡の人」の映画は映画館で昔に観ました。涙が無くなるくらいに泣いたように記憶しています。
手でアルファベットを綴る方法や、“WATER”水という文字を何度も何度も指文字で教えられている場面などは、今でも印象に残っています。

水“WATER”をヘレンが発声出来たときは、本当に自分がその立場に立ったように思えました。しばらくの間、その場面は脳裏から離れませんでした。今にして思うと音声療法士の学びをしたのも、そんな思いがどこかに残っていたからかもしれません。

 

“WATER“

みず

我がままだったヘレンケラーもその頃から少しずつ、自信をもったのでしょうか?変わっていったと記憶しています(間違っていたらごめんなさい)。

たったひとつのことでも出来るようになる。それで自信を持つことが出来るのだ、そう思いました。まわらない舌で発音した“WATER”。ヘレンケラーの記憶がいまここで甦った瞬間だったのかもしれません。発声する、声を出すことで、宇宙のエネルギーを取り込むことが出来ます。音も光もない暗闇の世界に光が差した瞬間だったのですね。音を発することで、光が差したのだと思います。

“WATER”水の冷たい流れていく感触と音(発声)が一つになった時に光が差し込む、エネルギーを取り込めるたのかもしれません。

ものには名前があることを理解する、わたしたちは当たり前すぎて忘れてしまっていますが、ものには名前があるから認識することが出来ます。見て感じてものの名前を知るではなく、感触から名前を知り、こころで見る。この感覚を忘れてはいけない、大事なことに思います。

ヘレンケラー

 

アニーサリバン(アン・サリバン)が残した言葉🍃

ここからは、アニーサリバン(アン・サリバン)が残した言葉をご紹介したいとも思います。

失敗したら初めからやり直せばいいの。 そのたびに あなたは強くなれるのだから。

失敗したら初めからやり直せばいいの。そのたびにあなたは強くなれるのだから。

 

知識は愛であり光であり、未来を見通す力なのだ

知識は愛であり光であり、未来を見通す力なのだ。

 

もっとも暗い雲の下でも、人間は清らかに美しく、楽しく生きられる。

 

どんな細やか(ささやか)な成功も、他人の目には触れない挫折や苦難の道を、経ているものなの

どんな細やか(ささやか)な成功も、他人の目には触れない挫折や苦難の道を、経ているものなの。

 

雲に触ることは出来ないでしょう?それでも雨が降ってくるのはわかるし、暑い日には、花も乾いた大地も、雨を喜んでいるのがわかるでしょう?

雲に触ることは出来ないでしょう?それでも雨が降ってくるのはわかるし、暑い日には、花も乾いた大地も、雨を喜んでいるのがわかるでしょう?

 

喜びは、自分を忘れる事にあるのよ

喜びは、自分を忘れる事にあるのよ

 

全力を尽くし、結果を待つ

全力を尽くし、結果を待つ

 

太陽ばかりを見ていては影は目に入らない

太陽ばかりを見ていては影は目に入らない

 

人の唇から漏れる微笑みを、自分の幸せと感じられる人間に私はなりたい。

 

ここでもう一度、昨日、ご紹介したお話を添えておきます。
今日もいい日でありますように🎵

 

サリバン先生の未来への扉を開いた、ひとりのお掃除のおばさんの話

 

ヘレンケラー。

目が見えない、
耳が聞こえない、
話せない…

三重苦という
完全なる闇を
抱えながら、

アニーサリバンという
最高の師と出会い、
世界の福祉制度を変えた、
誰もが知る偉人です。

今から私が
お話しするのは
ヘレンケラーの
ことではなく、

100年ほど前に
アメリカの
ニューイングランド州の
病院に勤めていた、

一人の
『お掃除のおばさん』
のお話です(^^♪
__________

おばさんの働く病院には、

『緊張型精神分裂症』

と診断された
9歳の女の子が
入院していました。

女の子は幼くして
両親と生き別れ、

弟と一緒に
施設に引き取られたのですが

弟もほどなくして亡くなり、
大きな悲しみに暮れた少女は

そのショックから
視力を殆ど失って、

追い打ちをかけるように

この重い心の病に
かかってしまったのです。

著名な医師たちが
彼女を診断しますが、

治る見込みはない、
ということでした。

当時は精神障害に対して
差別も色濃かった時代であり、

彼女は一日のほとんどを、
鉄格子のついた病室の
ベッドに横たわって
過ごしました。

笑うことも、
言葉を発することもなく、
ただ死を待つばかりでした。

おばさんは、
少女の部屋の周りを
毎日掃除しにやってきます。

おばさんにも、
同じくらいの年の
娘がいるので

不憫に思いながら…
時折声をかけてみます。

『元気?』

「……」

『いいお天気だよ。
あんた、今日も
全然食べてないじゃない』

「………」

『少しは食べて
元気出さなきゃね』

「・・・・・・・・・」

少女は表情一つ
変えることはありません。

そこでおばさんは、
毎日病室の前を去る前に、

ちょんちょん、

とホウキの柄で
少女の肩を優しく
つついてあげることにしました。

直接触れることは
できない、

でもホウキなら…

『明日も来るからね』

ちょんちょん。

『ご飯持ってきたよ』

ちょんちょん。

『さあ、今日も廊下を
きれいにしておいたからね』

なでなで。

鉄格子の間から
ホウキを差し入れて、
そっとつついたり撫でたり。

そんなことしか
してあげることは
できませんでしたが、
それでも何かせずには
いられなかったのです。

それから三か月ほど
経ったある日、
小さな変化が起きました。

おばさんが
病室の前に行くと、
いつもベッドに
横たわっていた少女が、
座っているのです。

『あれ!
今日は顔色もいいじゃない!
具合がいいの?』

「……」

『良かったね、
今日はおばさん、
張り切ってきれいに
しておくからね』

「………」

『また明日ね』

ちょんちょん。

それから少女は、
少しずつご飯のお盆を
手で受け取れるようになり、
ほんの一言ずつでしたが
言葉を発するようになり、
弱視ながら
視力を取り戻して、

笑顔まで
見せるようになりました。

偉い医師たちが
匙を投げた少女は、
やがて奇跡のような
回復を遂げていったのです。

それから約10年後。

この病院の院長は、
アラバマ州から来た
紳士からある相談を受けます。

紳士の子どもが
重度の障害児で、
世話をしてくれる人を
探しているというのです。

その頃、あの少女は
19歳になっていました。

院長は自信を持って、
彼女を紳士に紹介しました。

彼女の名は、
アニーサリバン。

病室で
ただ死を待つだけだった、
あの少女です。

ヘレンケラーの
世界的偉業は、
アニーサリバンの存在が
あったからこそ、
という事実は
私たち誰もが
知るところですが、

ではそのアニーサリバンは
誰によって
未来への扉を
ひらかれたのでしょうか。

ホウキの先ほどの、
小さな愛。

どんな大木も、
たった一粒の種から生まれ、
どんな大企業も、
たった一人の志から
始まります。

私たちは、
『いい世界を創ろう!』
などと聞くと、

『私なんかに
そんな大きなことは
できない…』

と思ってしまいがちですが、

あなたのたった一言、
たった一つの
愛の行動が、

今日もあなたがいる
場所の片隅に
あたたかな火を灯し、
やがて世界を変える
大きな力に
なるかもしれません。

『今日は
どんな一歩を
踏み出しますか?』

 

アン・サリバン

アン・サリヴァンことジョアンナ(アン)・マンズフィールド・サリヴァン・メイシー(Anne Sullivan、またはAnnie Sullivan Macy、Johanna Mansfield Sullivan Macy、1866年4月14日 – 1936年10月20日)は、ヘレン・ケラーの家庭教師(ガヴァネス)。通称「アニー」。日本では「サリバン先生」の名で知られている。ヘレン・ケラーは彼女のおかげで、の三重の身体障害を克服した。ヘレンケラーの生涯を綴る戯曲は『奇跡の人』と訳されており、「奇跡の人」とはヘレンのことと日本では誤解されがちである。しかし原題は「The Miracle Worker」であり、これは実際にはアンのことを指した言葉である。

  • 1866年4月14日 – マサチューセッツ州フィーディング・ヒルで、アイルランド系移民の農民トマス・サリヴァンとアリス・クロージーの娘として生まれた。3歳の時、目の病気トラコーマとなる。9歳のとき母親が亡くなり、結核によって身体が不自由になったのジミーとチュークスバリー救貧院へ移り住んだ。弟はすぐに亡くなり、アン自身も目の病気の悪化によって視力を失う。その時に病室にて弟の死と自分が盲目ということで状態となり、一切の食事を拒んだが、その病院の看護婦に毎日キリスト教の教えを説かれ、徐々に心を開いていったとされる。チャリティー州委員会議長(フランク・サンボーン)に学校に行きたいと訴えた。
  • 1880年10月 – 14歳のときに、マサチューセッツ州ウォータータウンにあるパーキンス盲学校に入り、訓練と数度の手術の結果、視力を回復する。ただし光に弱く、常にサングラスをかけていた。1886年には、アンは卒業生総代としてスピーチを行った。また、在学中には視覚、聴覚障害を克服したローラ・ブリッジマンと出会い、友人になっている。この出会いと自身の盲目の経験が、後のヘレン・ケラーの教育に生かされたことは想像に難くない。聴覚障害児の教育を研究していたアレクサンダー・グラハム・ベル電話の発明者として知られる)が、パーキンス盲学校を紹介し、アンがケラー家の家庭教師をすることになった。
  • 1887年3月3日 – ヘレン・ケラーの家庭教師として教えはじめた。その後パーキン協会、ケンブリッジの女子学生対象の大学への進学を援助し、1900年、遂にヘレンはラドクリフ大学(ハーバード大学の女子学部)へ入学することができた。
  • またヘレンの旅行に際してや、様々な講演旅行へ同伴することにより、彼女を支援し続けた。
  • 1905年5月2日 – 11歳年下のジョン・アルバート・メイシー(ハーバード大学講師で、ヘレンの自叙伝のエディター)と結婚(1914年頃には別居状態となるものの、32年のメイシーの死まで正式な離婚はしなかった)。
  • 1936年10月20日 – 冠動脈血栓症によりニューヨークフォレストヒルズ英語版で死去。70歳。遺体はのちに火葬され、ワシントンD.C.国立大聖堂の記念碑に埋葬された[1]
    (Wikipediaより)

 

 

 

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